第8章 家庭教師派遣会社の設立と全国展開への挑戦


教育を変えたいという想い

テレアポ営業で全国1位を獲得し、不良少年たちを家庭訪問で説得する日々を経て、
私は「もっと多くの子どもたちの未来を変えたい」という強い使命感を抱くようになりました。
そこで20代半ば、ついに 家庭教師派遣会社を立ち上げる 決断をしたのです。

沖縄は全国でも学力の低さが問題視されていました。
だからこそ、「ここから教育を変えるんだ」という気持ちは、誰よりも強かったと思います。


空きビルの2階から始まった冒険

独立して最初のオフィスは、現在イオンライカムがある近くの道路沿いの空きビルの2階でした。
入居時は窓が開けっぱなしでホコリだらけ。
私はホームセンターでホースを買ってきて、水をまきながら床を洗い、雑巾で拭きあげ、

ようやく「事務所らしき空間」にしました。

冬は寒くて、スタッフはそれぞれ足元に小さなヒーターを持参。
夏は蒸し風呂のような暑さで、「クーラーをつけるために、必死で売上を上げよう」と全員で誓いました。

家賃、備品代、スタッフの給料――。
売り上げが入ってきても、私の手元には一円も残りません。
足りない分はアコムやプロミスから借りて、アポインターさんたちの給料に充てました。

今振り返れば綱渡りでしたが、あの頃の私は「倒れるわけにはいかない」という気迫だけで突っ走っていました。


タコライスとビールで誓った夢

立ち上げメンバーはわずか4人。
毎晩仕事が終わると、近くのパーラーに行き、タコライスとビールを1つ頼んで4人で分け合いました。

「絶対に売上を上げて、いつか那覇に本社を構えよう」
「毎日腹いっぱい食べて、旨い酒を飲もう」

その約束を胸に、全員でがむしゃらに電話をかけ続けました。
お金はなくても、夢と情熱だけは誰にも負けなかったのです。


那覇・泉崎へ、そして全国へ

半年後。
その誓いは現実となり、那覇市泉崎のビルに本社を移転しました。
広いフロアを借り、社員数は一気に増えて70名近く。

毎朝の朝礼では全員で声を張り上げ、ラジオ体操をしました。
ジャンプの音が下の階に響きすぎて、「うるさい!」とクレームが入るほど(笑)。
それだけ活気と勢いに満ちた職場でした。

さらに半年後には、東京・渋谷に進出。
続けて埼玉、横浜、愛媛、高知、そして北海道へと拠点を増やし、全国制覇に向けて着実に歩みを進めました。


沖縄育ちの若手たちが支店長に

支店を任せたのは、沖縄で一緒に戦ってきた20代前半の若者たちです。
学歴も経験も関係ない。
必要だったのは「やる気」と「人の心を動かす力」。

彼らは自分の背中を見て育ち、どの地域でも泥臭く成果を出しました。
東京でも、大阪でも、地方でも、「沖縄から来た若者たち」が支店長として堂々と立っていたのです。


最初の成功体験と社会的評価

ある時、派遣した生徒が志望校に合格し、母親から涙ながらに感謝の電話をいただきました。
「先生、本当にありがとうございます」
その言葉が、どんな売上よりも嬉しかった。

口コミで評判が広がり、新聞やラジオにも取り上げられるようになりました。
教育を変えることを志して始めた小さな会社が、社会的に認められていく瞬間でした。


苦しみと情熱の狭間で

もちろん順風満帆ではありませんでした。
資金繰りは常に綱渡りで、社員同士の意見がぶつかることも多々ありました。
しかし、情熱と若さで乗り越えるしかなかった。

倒産の危機を何度も経験しながらも、「子どもたちの未来を変えたい」という想いだけは失いませんでした。
その想いが、不思議と仲間を集め、支えてくれる人を引き寄せていったのです。


第8章を終えて

家庭教師派遣会社を立ち上げた20代は、私の人生の中で「最もがむしゃらに走った時期」でした。

  • 空きビルの2階で、ホースで水をまいて始めた事務所
  • タコライスを分け合い、那覇への進出を誓った夜
  • 全国へ広がっていく拠点と、沖縄育ちの若者たちの活躍
  • そして、資金難と戦いながらも貫いた教育への使命感

このすべてが、後のインターネット事業やネクストレボリューション設立へとつながっていきます。

教育から始まった挑戦は、私の人生そのものを大きく変えていったのです。

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